会津若松の基本情報
福島県は、東から順に、浜通り、中通り、会津の3つの地域に分かれます。会津若松は、会津の中心都市です。
会津若松は、鶴ヶ城(会津若松城)の城下町として繁栄してきました。江戸から明治にかけて200年以上の長きにわたり、会津松平家が会津を治めます。
会津松平家は、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の四男である保科正之を始祖としており、幕末期にも一貫して幕府を支援する立場をとります。9代藩主の松平容保は京都守護職を命じられ、新選組を率いて京都の治安維持に努めました。
会津若松は、戊辰戦争(会津戦争)の舞台にもなります。13歳から17歳の少年たちによって構成された白虎隊が、圧倒的な戦力の新政府軍と対峙します。隊の一部は飯盛山に逃れ、そこで自刃するという悲劇の最期を遂げます。
会津戦争では、「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる山本八重(新島八重)も銃を手に取り参戦します。八重は戦争を生き延び、同志社創立者である新島襄の妻となります。八重の生涯は、NHK大河ドラマ「八重の桜」の中で描かれています。
会津は、張り子人形の一種である「赤べこ」の生産地としても知られています。会津若松には、赤べこをモチーフにした「あかべぇ」というキャラクターがいます。
会津若松の観光スポット
道草旅行社おすすめの観光スポットを、1位から順にご紹介します。
室町時代には、蘆名(あしな)氏の城でした。当時は黒川城と呼ばれ、城下町は「黒川」と呼ばれていました。
安土桃山時代から江戸時代にかけては、伊達、蒲生、上杉、蒲生、加藤と頻繁に城主が変わります。蒲生氏郷が城の名前を「鶴ヶ城」、街の名前を「若松」と改めます。蒲生氏郷がいなければ、会津若松は現在でも黒川、あるいは会津黒川と呼ばれていたかもしれません。
寛永20年(1643年)に保科正之(会津松平家の始祖)が城主となり、1874(明治7年)に廃城となるまでずっと、会津松平家の城でした。
中央に鉄門(くろがねもん)、奥に干飯櫓が見えます。
飯盛山の中腹に建っています。正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)です。
らせん構造の斜路で上り、同じ中心軸のらせん斜路で降りる、所謂「二重らせん構造」の珍しい建物です。二重らせん構造は、DNAと同じ構造です。国の重要文化財に指定されています。