【ミラノ】おすすめの観光スポットとモデルコース

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア

ミラノの基本情報

Piazza Cordusio

ミラノは、ミラノ県の県都であると同時に、ロンバルディア州の州都です。イタリアの首都はローマで、イタリア最大の都市もローマですが、イタリア最大の州はロンバルディア州であり、イタリア最大の都市圏もミラノ都市圏です。ミラノは、イタリアでもっとも国際的な都市と位置づけられています。

ミラノ市の人口は約135万人で、日本でいうと京都市(約145万人)とさいたま市(約125万人)の間に入ります。

古代西ローマ帝国の首都であり、ルネサンスの時代にはミラノ公国として黄金時代を迎えます。トランスパダーナ共和国、チザルピーナ共和国、イタリア共和国と北イタリアがナポレオンの勢力下にあった時代にも、ミラノはその首都でした。ハプスブルク家が再び実権を取り戻し、ロンバルド・ヴェネト王国が建国されますが、ヴェネツィアとともに、やはりミラノはその首都として栄えます。

ミラノ・コレクションの開催地としても有名です。ミラノ・コレクションは、パリ、ロンドン、ニューヨークのコレクションと並び、世界四大コレクション(ファッションショー)の一つといわれています。プラダ、アルマーニ、ドルチェ&ガッバーナ、ヴェルサーチなどの有名ブランドも、ミラノに本店を構えています。

世界最大規模の家具見本市、ミラノ・サローネの開催地としても有名です。またこの期間には、ミラノ・デザインウィークとして、幅広くデザインに関する大規模な展示会が同時に開催されます。ソニーやパナソニックといった日本の大手メーカーも、こぞって出品しています。
さらに国際的な美術展として知られる、ミラノ・トリエンナーレの開催地としても有名です。

現在のイタリアにおいてもしミラノに首都が置かれていたなら、フランスのパリやイギリスのロンドンに並ぶような世界都市になっていたのではないでしょうか。

ミラノの歴史

古代

古代、ミラノはラテン語でメディオラヌム(Mediolanum)と呼ばれていました。286年、ディオクレティアヌス帝によるローマ帝国の分担統治が開始され、ローマから当時メディオラヌムと呼ばれたミラノに、西ローマ帝国の首都が移りました。

中世

中世には、東ゴート王国、東ローマ帝国、ランゴバルド王国の支配を受けます。ランゴバルド王国はまたの名をロンバルディア王国といい、ロンバルディア州の由来となりました。

近世

ルネサンスの時代には、ヴィスコンティ家とスフォルツァ家が僭主を務めるミラノ公国となりました。ルドヴィーコ・スフォルツァがレオナルド・ダ・ヴィンチに依頼し、『最後の晩餐』を描かせたのもこの時代で、ミラノの黄金時代といわれています。

近代

イタリア戦争の後、神聖ローマ帝国とハプスブルク家の支配を受けます。1796年、ナポレオン・ボナパルトがオーストリア軍から北イタリアの諸都市を開放し、フランスの衛星国としてチスパダーナ共和国、トランスパダーナ共和国を建国します。両国は翌年統合され、チザルピーナ共和国に移行します。チザルピーナ共和国は1802年、イタリア共和国と改称し、さらに1805年、ナポレオンを国王としてイタリア王国へと移行します。ハプスブルク家の圧制に苦しんできた北イタリアの民衆から、ナポレオンは歓迎される存在でした。ミラノはトランスパダーナ共和国、チザルピーナ共和国、イタリア共和国、そしてナポレオンを国王としたイタリア王国の首都でした。

ちなみに、現在イタリアの国旗となっている緑白赤の三色旗は、チスパダーナ共和国の国旗が原型になっています。チスパダーナ共和国の国旗は、フランス共和国の国旗、青白赤の三色旗に影響を受けていますので、フランスの国旗とイタリアの国旗は兄弟の関係にあります。

1812年、ナポレオンはロシア遠征に失敗しフランスは弱体化します。1815年、ミラノは再びハプスブルク家が皇帝として君臨するオーストリア帝国の手に落ち、その従属国としてロンバルド・ヴェネト王国が建国されます。ミラノはヴェネツィアと共に、ロンバルド・ヴェネト王国の首都となりました。

イタリア独立戦争により、フランス(第二帝政)の支援を受けたサルデーニャ王国がロンバルディアからオーストリア軍を追い出すことに成功し、ミラノはサルデーニャ王国の一部となります。このときサルデーニャ王国の国王だった人物が、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世です。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は1861年、ついにイタリア統一を果たしイタリア王国を建国します。ミラノの観光名所、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアにも彼の名がついています。

ミラノの観光スポット

道草旅行社おすすめの観光スポットを、1位から順にご紹介します。

1位ミラノ大聖堂(ドゥオーモ)

ミラノ大聖堂

世界最大級のゴシック教会です。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが領主を務める、ルネサンスの時代に建設が始まります。

ミラノ大聖堂

ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの希望により、当時新しい流れであったゴシック様式で建設されることが計画され、そのためにフランス人技師が雇われました。ゴシックはパリのノートルダム大聖堂を代表例として、フランスで生まれた建築様式です。しかしイタリアの文化人からは異端視され、「ゴシック」という言葉も彼らが侮蔑の意味を込めて「ゴート族の(gotico)」様式と呼んだことに由来します。

世界最大級であると同時に、イタリアでは珍しい典型的なゴシック様式の教会であるということがいえます。

ミラノ大聖堂

サグラダ・ファミリアではないですが、完成には600年近くもの歳月がかかっており、正式に完成したのは1965年とされています。

ミラノ大聖堂

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