ローマの基本情報
ローマは、イタリアの首都であり、ラツィオ州の州都であると同時にローマ県の県都です。
人口は約280万人で、イタリア最大の都市です。都市圏人口では、ミラノが上回ります。
日本語の「ローマ」は、イタリア語の"Roma"を文字通りローマ字読みしたものです。英語では"Rome"と書き、その発音は「ロォゥム」に近いです。
コロッセオやフォロ・ロマーノ、パンテオンなど、貴重な古代ローマ時代の遺構が残ります。スペイン広場やトレヴィの泉、真実の口など、有名な観光スポットも枚挙に暇がありません。
トリップアドバイザーの「世界の人気観光地ランキング2018」では、パリ、ロンドンに続き第3位に選ばれています。
フィレンツェが「花の都」、ヴェネツィアが「水の都」と呼ばれるのに対し、ローマは「永遠の都」と称えられています。
テベレ川の西には、ローマの中にありながらも独立国として治外法権の認められた、ヴァティカンがあります。カトリックの総本山として、世界中から巡礼者が訪れます。
ローマの歴史
ローマの歴史は、ほとんどヨーロッパの歴史そのものです。
古代ローマ
ローマを首都とする所謂「古代ローマ」は、ローマ神話において紀元前8世紀に誕生したとされます。史実の中で王政、共和制、帝政へと形を変え、西ローマ帝国が滅亡する476年まで続きます。最盛期には、ゲルマニア(ライン川以東、ドナウ川以北)を除くほぼヨーロッパ全域と西アジア、そして北アフリカの一部をも領土とする大帝国でした。
ローマ帝国は395年、東西ローマに分裂し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都はコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル、現在のトルコ・イスタンブール)に置かれます。東ローマ帝国をローマの正当な後継とするなら、「ローマ」という国は東ローマ帝国が滅亡する1453年まで続くことになります。
ヨーロッパ史では一般的に、西ローマ帝国の滅亡をもって古代と中世が区別され、東ローマ帝国の滅亡をもって中世と近世が区別されます。
古代ローマはイタリック人の一派であるラテン族(ラテン人)による文明であり、イタリア半島において俗ラテン語から派生したイタリア語を話す、「イタリア人」としてのアイデンティティーを形成する源となりました。
西ローマ帝国の滅亡
西ローマ帝国を滅ぼしたのは外敵ではなく、西ローマ帝国の傭兵隊長オドアケルによるクーデターでした。彼は東ローマ帝国の皇帝ゼノンに西ローマ皇帝の帝冠を送り、ローマ皇帝の代官としてイタリアを統治する権利を得ました。
民族大移動と東ゴート王国による支配
オドアケルはやがてゼノンと対立し、ゼノンの命を受けたテオドリックによって倒されます。テオドリックは、民族大移動によって南下したゲルマン人の一派である東ゴート族でした。東ローマ帝国に承認された国家として497年、東ゴート王国が成立します。東ゴート王国の首都はラヴェンナに置かれました。
東ローマ帝国主導によるローマ帝国の再統一
東ゴート王国もやがて東ローマ帝国と対立するようになり、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世によって遣わされたベリサリウス、そしてそれに続くナルセスによって滅ぼされます。ユスティニアヌス1世は再び統一された「ローマ帝国」の王としてイタリアを直接支配しますが、首都は依然コンスタンティノポリスのままであり、ローマにかつての栄華はありまえんでした。
ランゴバルド王国による支配
東ローマ帝国は東方でササン朝ペルシャ帝国と対峙しており、ローマのある西方の支配強化に手が回る状況ではありませんでした。568年、やはりゲルマン人の一派であるランゴバルド族がイタリア半島に侵入し、ランゴバルド王国を建国します。ランゴバルド王国の首都はイタリア北部のパヴィアに置かれ、ローマを中心とする一部地域は最後まで支配下に置くことはできませんでした。
教皇領と神聖ローマ帝国による支配
752年、イタリア中部にローマを首都とする教皇領(教皇国)が成立します。774年、ローマ教皇ハドリアヌス1世の要請を受けたカール1世(カール大帝、フランス語でシャルルマーニュ)率いるフランク王国が、ランゴバルド王国を滅ぼします。ちなみに、カール1世はゲルマン人の一派である、フランク族(フランク人)です。
800年、カール1世がローマ教皇レオ3世から戴冠を受けローマ皇帝となり、象徴的な意味での神聖ローマ帝国が誕生します。実態としてはフランク王国分裂後の962年、東フランク王国のオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世から戴冠を受け、神聖ローマ帝国が誕生します。(いずれにしても、「神聖ローマ帝国」という名前が使われるようになったのは、13世紀以降になってからです)
「後に神聖ローマ帝国と呼ばれる国家」は、西ローマ帝国の後継を自称していましたが、ローマを首都としたことは一度もなく、実際にはドイツ、オーストリアを中心とした国家でした。ヴェネツィアを除くイタリア北部は神聖ローマ帝国の支配下に置かれ、イタリア中部だけが教皇領として残りました。イタリア南部は、アラブ(イスラム勢力)の侵入を受けていました。
ルネサンスとイタリア戦争
ミラノ公国、フィレンツェ共和国、ジェノヴァ共和国など自治権を持った都市国家が誕生し、イタリアはルネサンスの時代を迎えます。しかし同時に神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)とフランス王国(ヴァロワ家)との代理戦争の場となり、また教皇領の政治的意図も複雑に入り混じり、イタリア各地で紛争が絶えることはありませんでした。
ローマ教皇は、神聖ローマ帝国とフランス王国のどちらにつくかを迫られる立場となります。教皇クレメンス7世はフランス王国と同盟を結びますが、その報復措置として1527年、ローマの街は神聖ローマ帝国によって破壊されます。このとき、イタリア・ルネサンスが終わりを迎えたといわれます。戦争は、カール5世(カルロス1世)率いる神聖ローマ帝国が勝利します。
ハプスブルク家による支配
カール5世の退位にあたり1556年、ハプスブルク家は弟フェルディナント1世が当主を務めるオーストリア・ハプスブルク家(ハプスブルク帝国)と、子のフェリペ2世が当主を務めるスペイン・ハプスブルク家(スペイン・ハプスブルク朝)とに分裂します。オーストリア・ハプスブルク家が神聖ローマ帝国の後継を名乗りましたが、教皇から戴冠を受けたローマ皇帝はカール5世が最後となり、神聖ローマ帝国の名はやがて形骸化していきました。
イタリアはスペイン・ハプスブルク家の支配の後、オーストリア・ハプスブルク家の支配へと移っていきます。ナポレオン・ボナパルトによって一時はフランス(第一帝政)がイタリアを開放しますが、ナポレオン戦争とウィーン会議の結果、オーストリア・ハプスブルク家が再びイタリアの支配権を持つことになります。
イタリアの統一
フランス(第二帝政)の支援を受けたサルデーニャ王国を中心とした独立運動によって、ついにイタリアの統一が果たされます。1871年、ローマはその首都となり、王政から共和制へと政治体制を変えながら、現代のイタリアへと繋がっていきます。
ちなみにフランスの支援は綺麗ごとだけではなく、「プロンビエールの密約」によってイタリアはフランスとの国境地域の一部(現サヴォワ県、オート・サヴォワ県、そしてニースを中心としたアルプ・マリティーム県)を失っています。
ローマの観光スポット
道草旅行社おすすめの観光スポットを、1位から順にご紹介します。
フォロ・ロマーノは、古代ローマにおける政治と経済の中心となった場所です。「すべての道はローマに通ず」という言葉がありますが、その起点となった場所です。
パラティーノの丘は「ローマの七丘」の一つで、ローマ神話の中でロムルスがローマの建国を始めたとされる地です。ローマという街の名前も、ロムルスに由来するといわれています。
ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスもこの地に居を構え、その邸宅跡が残されています。
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