ハドリアヌス帝の霊廟として、自らの命により建設が開始されます。次代(アントニヌス・ピウスの時代)に完成するも、やがて要塞としての使われ方をするようになります。
神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)とフランス王国(ヴァロワ家)が争ったイタリア戦争において、ローマ教皇クレメンス7世はフランス王フランソワ1世と同盟を結びますが、これが神聖ローマ皇帝カール5世の逆鱗に触れることになります。神聖ローマ帝国によってローマは蹂躙されますが、このときクレメンス7世は、サンタンジェロ城に身を隠したといわれています。
ローマ街道の一つで、ローマと北部を繋ぐもっとも重要な街道であった「フラミニア街道」の起点となった広場です。日本だと五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点となった、日本橋が近いかもしれません。
印象的な双子教会、サンタ・マリア・イン・モンテサント教会とサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会は17世紀に建てられたものです。
18世紀に造られた噴水です。公平に見れば美しい噴水であることは間違いないのですが、それを取り囲むように人が溢れかえっていて、やや滑稽な印象を与えている感も否めません。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
「ローマの四大バシリカ」の一つです。ローマ・テルミニ駅からも近く、アクセスが便利です。
1309年、ローマ教皇庁はフランスの圧力によってフランスの田舎町、アヴィニョンに移ります。「アヴィニョン捕囚」と呼ばれる事件です。1377年、ローマへの帰還を果たしますが、このとき教皇の一時的な住まいであった場所が、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂です。その後、教皇はヴァティカンへと移っていきます。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によるイタリア統一を記念した建築物です。「国父の祭壇(Altare della Patria)」と呼ばれることもあります。